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坂田電機物語

坂田電機物語
電車が通過するたびに
初代社長
 昭和32年の中央線荻窪の線路際で、2人の男が1台の機械を前に熱心に働いていた。機械は線路わきに設置され、電車が通過するたびに男たちは、機械の目盛を覗きこむのだった。
 この2人こそ、坂田電機の創業社長・坂田肇と社員の木下一志であり、今しも列車速度計を開発しようとしているところであった。
 ―この速度計がなぜ必要かというと、貨物列車の仕分けのためである。高速道路も整備されていない当時、物流の主役は鉄道であり、多くの貨物列車が日本全国へ物資を運んでいた。そのため、貨物列車を行き先別に仕分けする操車場が必要になる。高台から貨車を走行させて追加速度を測り(積載重量によって速度が違ってくる)、線路に取り付けられた油圧ブレーキで速度を調整する。止まっている貨車に、適正なスピードで連結させるためだ。列車速度計は、このような用途で開発され、国鉄(現JR)の技術研究所(以下鉄道技研)に納品された。翌年(昭和33年)には、全長4mにもなる操車場の模型(列車速度計をシステム化したもの)を製作、納品している。
坂田電機研究所の始まり
 坂田電機はその前身である(資)坂田電機研究所(昭和23年創立)の時代から、国鉄とは強い結びつきがあった。戦前に鉄道技研に入所した坂田肇は、戦争の激化に伴い、退所して中島飛行機に入社。やがて終戦を迎え、復員の挨拶も兼ねて鉄道技研を訪れると、かつての同僚から土圧計の製作を依頼された。電気の知識に明るく、手先が器用で9.5ミリ映写機を自作したこともある坂田は二つ返事で引き受けた。坂田電機研究所はこうしてスタートする。

 終戦直後の日本の国土は荒廃し、食料も物資も極端に不足していた。もちろん材料も不足していた。坂田電機の従業員は、荻窪から秋葉原まで軍放出の電気部品の買い出しを余儀なくされた。その買い出しに威力を発揮したのが、電気三輪車である。

 クルマ好きの坂田が製作したもので、自転車の後輪部分を切り取り、荷台の付いた二輪車を接続。自動車用のバッテリーでモーターを駆動して走行する。バッテリーが切れてもペダルを踏めば、自転車として走行可能だった。当時、自動車はもちろん、ガソリンも貴重品で、マイカーなど夢のまた夢という時代に快走(実際には、走行に癖があり、乗りこなすには、ある種のコツが必要だった)する電気三輪車に人々は目を丸くした。

 創業当時は従業員数10名足らずで、小さな「町工場」の様相を呈していた。その隣では、町のラジオ屋として、修理・販売を行っていた。昭和27年に坂田電機株式会社となり、32年には計測機器の製造・販売に一本化された。鉄道技研の依頼で土圧計や水圧計などの計測機器を試作、納入していた。
初代社長の創意“なければ作ればいい”
 当時は至るところに、小さな工場が溢れていたが、坂田電機はどこか違っていた。その違いを一言で言ってしまえば、坂田肇に代表される創意である。冒頭の列車速度計、三輪自動車や後の自動電圧調整器、数々の土圧計の存在がそれを物語っている。

 坂田は寝る時も手帳を手離さず、何かひらめくものがあると、ただちにメモをとった。そのメモは、簡単な回路図になり、自分で製作したり、社員に試作させたりした。工場は、作りかけの試作品であふれていた。

“部品がなければ作ればいい”――これが創業当時の坂田電機のモットーであったともいえる。

「何でも自分たちで開発しよう」という精神は、今も脈々と受け継がれ、これからもその精神の基に、坂田電機は常に時代の最先端を走り続け、活躍をしていく会社であり続けたい。
今も引き継がれる坂田電機

現在(令和元年)坂田電機株式会社、社屋

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